観光スポット

フルヴィエール大聖堂

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フルヴィエール・ノートルダム大聖堂
BASILIQUE NOTRE-DAME DE FOURVIERE

住所:8 Place de Fourvière 69005 Lyon France
開館時間:毎日 07:00-19:00

アクセス:「ヴュー・リヨン(Vieux-Lyon)」駅よりケーブルカーで「フルヴィエール(Fourvière)」駅下車

フランスのリヨンを流れるソーヌ川の右岸にフルヴィエールの丘(Colline de Fourvière)と呼ばれる標高318メートルの小高い丘がある。その頂上に白く輝く教会がリヨンの町を見下ろしている。「青々と茂る木々に覆われた丘、白い教会、青い空」、リヨンの絵はがきそのものの風景である。フルヴィエールの丘は、別称「祈りの丘」とも呼ばれ、リヨンの歴史を語るうえで欠かせない場所である。

地中海からローヌ川を上ってフルヴィエールの丘にやってきた古代ローマ人が、植民市として「ルグドゥヌム(Lugdunum)」を建設したのは紀元前43年のこと。現在、教会が建つ場所に、古代ローマの公共広場「フォルム・ヴェトス(Forum Vetus)」がおかれ、フルヴィエールという名の由来といわれている。

フルヴィエールの丘の教会は、正式には「フルヴィエールのノートルダム大聖堂(Basilique Notre-Dame de Fourvière)」といい、聖マリアに捧げる教会として1872年から1896年にかけて建設された。

フルヴィエールの丘と聖マリアを結ぶ歴史は古く、1168年に「フォルム・ヴェトス」の跡地に聖トマスを祀る礼拝堂が建設され、後に、聖マリアが祀られるようになった。

中世ヨーロッパではペスト菌との闘いであった。ペストは3度にわたって世界規模で猛威をふるい、第二次パンデミックは14世紀から19世紀半ばまで断続的に続き、大きな被害をもたらした。フランスは1628年からペストが流行し、リヨンも1628年、1631年、1639年、1642年とペストに襲われた。1642年4月5日、リヨンの町役人がフルヴィエールの聖マリアに「ペストからリヨンの町を守ってほしい」と祈りを捧げ、その2日後にフルヴィエールの丘に巡礼行列を実施する。翌年1643年3月12日、今度はリヨンの住民が聖マリアに祈り捧げ、「ペストが終息したあかつきには、毎年フルヴィエールの丘に巡礼行列を実施する」と誓願をたてたのだ。驚くことに、ペストはリヨンを襲うことなく終息していく。リヨンの人々は約束を守り、毎年、聖マリア誕生の日である9月8日に、大砲を3発鳴らしてリヨンの町を清め、リヨン市長の参列のもとフルヴィエールの丘まで巡礼行進し、金貨1枚を献納するという儀式をはじめた。

19世紀にはいり、フルヴィエールの丘の礼拝堂の老朽化がすすみ、鐘楼が崩れかけた。これを機に改装増築が行われ、彫刻家ジョセフ=ユグ・ファビシュ(Joseph-Hugues FABISCH)が手掛けた黄金の聖マリア像が鐘楼に設置された。金箔で覆われたブロンズの聖マリア像は、なんと高さ5.60メートル、重さ3トンもする。1852年9月8日、毎年恒例の巡礼行列に続いて、聖マリア像の竣成を祝う儀式が予定されていたが、あいにくの悪天候で12月に延期された。そして、無原罪の聖母の祝日にあたる12月8日、青く晴れ渡った空の下、リヨンを丘の上から見守る聖マリア像の竣成式が無事に行われたのだ。この日、リヨンの人々は窓辺にロウソクを並べ、聖マリアに感謝の祈りを捧げた。それが、今日まで続くリヨンの伝統行事「光の祭典」のはじまりである。

フルヴィエールの丘の聖マリアは世界中に名を広め、多くの巡礼者を呼び、次第に教会に収容しきれなくってきた。そこで、1853年にフルヴィエール委員会が設立され、増築あるいは新しい教会を建築することが検討された。フルヴィエール委員会はリヨン出身の建築家ピエール・ボッサン(Pierre BOSSAN)に新教会の設計を依頼した。当時、イタリア・シチリア島のパレルモに住んでいたボッサンは、パレルモ大聖堂からインスピレーションを得て、ビザンチン、ロマネスク、ゴシック建築の様式を融合させた新しいスタイルの教会を設計した。ボッサンのプロジェクトはあまりにも斬新であったため、保守的な人々から受け入れてもらえず、新教会の建立はなかなか進まなかった。そんな折、フランスとプロセイン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部)との間で戦争(普仏戦争)が勃発し、1870年、プロセイン軍がフランスのパリを陥落しディジョンまで進出してきた。リヨン大司教が「プロセインがリヨンを侵略しなかったら必ず、聖マリアのための教会を建立する」と誓いをたてた。歴史が語るように、プロセイン軍はリヨンを侵略することなく撤退して戦争が終了。リヨンは再び誓願を守って、礼拝堂の横に新しい教会を建立した。それが、現在のフルヴィエール大聖堂なのだ。
当時、フルヴィエール大聖堂を「仰向けになった白い象」と揶揄する人もいたそうだ。確かに、アプス(後陣)が象の鼻で、4隅の塔が象の足に見える。 

幅35メートル、奥行き86メートルの教会は、白い石を積み上げた鉄筋構造で、遠くからみるとかなりスリムなボディラインである。4隅に配された10角形の塔は高さが48メートル、それぞれ『力』『正義』『慎重』『節制』を象徴している。

ファサードや南北の壁に見事な彫刻が施されているが、4人の彫刻家が20年の年月を費やして実現したものである。一部、未完のものもあるという。

大聖堂は地下教会と地上教会の2階層になっている。
地上教会に入ると、天井、床、壁一面にモザイクが施され、思わず息をのむほどの豪華さだ。ビアンコカララの大理石を台座にすらっと伸びた16本のポリクロームの円柱が身廊と側廊を区切り、壁には6枚のモザイク画(『オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク』『リヨンに到着した聖ポタン』『エフェソス公会議』『ルイ13世の誓願』『レパントの海戦』『聖マリアの無原罪の教義宣言』)が並び、上部には19世紀の技術を駆使したリテールが美しいステンドガラスが配されている。すべてに聖マリアが描かれ圧巻である。

8段の階段で床上げされた祭壇に祀られたビアンコカララの大理石でできた聖母子像は、東から差し込む自然光のオーラで包まれ、背後に配された5枚のステンドガラスが拝観者の目を惹きつける。ステンドガラスはガスパール・ポンセ(Gaspard Poncet)のデッサン画をもとに、ギュスタヴ・モロー(Gustave Moreau)の弟子、ジョルシュ・デコート(Georges Décote)の作品である。

側廊には8つの礼拝堂が配され、ラリヴェ(Jean-Baptiste Larrivé)、カステックス(Joseph Castex)、ミルフォ(Paul-Emile Millefaut)、プーシュ(Denys Peuch)、デュフレーヌ(Charles Dufraine)、ベローニ(Joseph Belloni)などの素晴らし彫刻作品が楽しめる。19世紀は彫刻の黄金時代で、ドラマチックで表現力豊かな作品を生み出している。

地下教会は、地上教会から大理石の階段で結ばれている。装飾は地上教会に比べると簡素にみえるが、一面にモザイクが張り詰められ、細部にわたって芸術性に優れている。祭壇には聖父子像(キリストと養父のヨセフ)が祀ら、各国から贈呈された聖マリア像(彫像や絵画)が奉納されている。国によって、聖母マリアのイメージ(顔、髪型、体型など)に違いがあって、なかなか興味深い。

フルヴィエール大聖堂の横に展望台があり、リヨン市内を一望できる。眼下にリヨン歴史地区が広がり、ソーヌ川、プレスキル、ローヌ川、そして、天気がよい日は、遥か彼方フレンチアルプスのモンブランまで見渡せる。

フルヴィエールの丘へはケーブルカーを利用するか、あるいは徒歩で登ることができる。2018年の数字によれば、フルヴィエールの丘に年間250万人(内、巡礼者50万人)が訪れるほど、リヨン有数の観光スポットである。丘の上という立地条件のなか、年々増加する観光客や巡礼者をより安全に、より快適に受け入れるために教会周辺の整備が行われた。休憩所やトイレが改装され、インフォメーションセンターも設置された。教会がガイド付き見学(予約要)を主催している。これを利用すれば、大聖堂の塔をのぼり、最上階に設置された大天使聖ミカエル像のテラスからリヨンを一望するパノラマの景色や、教会内の高檀から地上教会を一望することができる。およそ345段の階段を登るので、履きなれたフラットシューズで参加しよう。

文・写真:マダムユキ


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