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リヨン市庁舎

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リヨン市庁舎
HOTEL DE VILLE DE LYON

住所: 1 Place de la Comédie 69001 Lyon France
見学日: リヨン観光局サイトにてご確認ください
見学時間: リヨン観光局サイトにてご確認ください
見学所要時間: 1時間30分
見学言語: フランス語
入場料: 大人€6
URL: https://en.visiterlyon.com/salons-of-the-city-hall.html
アクセス: 地下鉄A線「Hôtel de Ville - Louis Pradel」駅

フランスのリヨンの町をローヌ川(le Rhône)とソーヌ川(la Saône)が流れ、リヨンの南端で合流する。そして、地中海へと流れていく。このふたつの川に挟まれた中州はプレスキル(Presqu'Île)と呼ばれ、リヨンの中心となる商業地域になっている。そのプレスキルにはふたつの主要な広場がある。南にあるのがベルクール広場(Place Bellecour)、北にあるのがテロー広場(Place des Terreaux)だ。

リヨンの北に位置するテロー広場に面して、リヨン市庁舎 (Hôtel de Ville)とリヨン美術館(Musée des Beaux-Arts)が建ち、自由の女神の作者で知られる彫刻家フレデリック・バルトルディ(Frédéric BARTHOLDI、1834-1904年)の美しい噴水が広場の中央を飾っている。広場の北側はクロワ・ルースの丘の麓にあたり、カフェやレストランが並び、天気のよい日は季節を問わず、観光客やリヨン人でぎわう。テロー広場はリヨンの観光名所のひとつとなっている。

前置きが長くなってしまったが、テロー広場の東側、リヨンオペラ座があるコメディー広場の西側に建つリヨン市庁舎を紹介したい。

■テロー広場
まずは、テロー広場の歴史を語ろう。

テロー広場は美しい長方形の歩行者専用の広場である。「テロー」という名は溝を意味するラテン語「Terralia」に由来する。16世紀以前のテロー広場はリヨンの町の北境界線としてつくられた城壁の外側にあった。その城壁に沿って「溝」が掘られ、ローヌ川とソーヌ川を結ぶ運河が流れていた。16世紀になって、フランス王で「民衆の父」と呼ばれたルイ12世がこの城壁をクロワ・ルースの丘まで移動させたのだ。1512年のことだ。こうして、テロー広場が城壁内におさめられ、リヨンの町に属することになった。1576年頃からテロー広場に豚肉市場がたつなど、庶民の広場としてにぎわっていく。

17世紀、テロー広場に大きな転機が訪れる。1646年、広場の東側にリヨン市庁舎の建設が決定されたのだ。リヨンの商業活動の中心がソーヌ川の右岸(リヨンの旧市街地)からプレスキルへと移り、市庁舎の建つテロー広場が行政の中心となる。

■リヨン市庁舎の建設
次に、市庁舎建設にいたるまでの歴史を簡単におさらいしてみよう。

1462年まで、リヨンの市政を司る場所というのは特になく、古文書によればサン・ニジエ教会(Eglise Saint-Nizier)、サン・ジャケーム礼拝堂(Chapelle Saint-Jacquême)に市参事会員が集まり、現在でいうところの市議会が開かれていた。サン・ニジエ教会は現在もリヨン第2区に存在するが、サン・ジャケーム礼拝堂はフランス革命時代に国有財産として売却され、1791年に取り壊されてしまった。

市庁舎としての機能を有する建物が登場するのは1462年になってからだ。市参事会員たちは、リヨン市が1424年に購入した、サン・ニジエ教会の北側に面するフロマジュリ通り(rue de la Fromagerie)にあるシャルネ邸(maison de Charnay)に議会の場所を移したことから始まる。だが、この建物は市庁舎としては小さすぎた。そこでリヨン市は、1604年にルネサンス様式の瀟洒な建物、クーロンヌ邸(Hôtel de la Couronne)を買い取り、市庁舎として使用することにした。そのクーロンヌ邸も次第に手狭になり、絹織物産業で発展を続けるリヨンの町を象徴するような立派な市庁舎が必要だという声が高まった。そうはいっても、市庁舎を建設するに十分な資金がなく、市庁舎建設計画はなかなか進まない。1646年、リヨン市は市庁舎として使用しているクーロンヌ邸を競売にかけ、その売却益を新市庁舎の建設費に充てることを決定した。さて、それでは新市庁舎をどこに建設しよう、ということになるが、新たに土地を購入する資金はない。ということで、リヨン市がすでに所有していたテロー広場の東側に市庁舎を建設することになったのだ。

ちなみに、クーロンヌ邸は現在「リヨン印刷博物館(Musée de l'imprimerie)」として利用されている。ルネサンス様式特有のアーケードや螺旋階段塔、外壁には美しい彫刻装飾が残されており一見の価値あり。リヨンを訪問される機会があったら、お立ち寄りいただきたい場所のひとつだ。

■リヨン市庁舎の建設
1646年、広場の東側にリヨン市庁舎の建設が決まり、リヨンの建築家シモン・モーパン(Simon MAUPIN、不明-1668年)にその設計がゆだねられた。モーパンは新市庁舎を設計するにあたり、パリに赴き、国王付首席建築家のジャック・ルメルシエ(Jacques LEMERCIER、1585-1654年)や、建築家であり数学者として名を広めていたジラール・デザルグ(Girard DESARGUES、1591-1661年)にアドバイスを求めたという。

1646年5月8日、フランス王ルイ14世から設計図の承認を得て、同年9月5日、ルイ14世の誕生日という記念すべき日に「リヨンの栄光」と刻まれた礎石を据える定礎式(着工式)が行われた。

工事は数々のトラブルに見舞われ、建物の大枠が完成したのは1654年になってからだ。内装はトーマ・ブランシェ(Thomas BLANCHET、1614-1689年)が担当し、1672年に工事が終了した。着工から26年の歳月を要したことになる。こうして念願かなって「リヨンの栄光の象徴」として建設された市庁舎は、当時、ヨーロッパ有数の豪華な建物として話題になったというから、苦労が報われたといえよう。

しかし、竣工から2年後、1674年9月13日、不幸なことに市庁舎は大火事に見舞われる。祭典の大広間や礼拝堂が焼失し、屋根が崩落した。リヨン市には修復する資金がない。市庁舎の修復が決定したのは25年後の1699年になってからだ。

今度は、ルイ14世の首席建築家でパリのヴァンドーム広場やロワイヤル橋を手がけたジュル・アルドゥアン=マンサール(Jules HARDOUIN-MANSART、1646-1708年)に設計がゆだねられ、1701年から1703年にかけて損傷した建物の修復が行われた。大広間は、モーパンの設計では大理石と石が使われたが、マンサールは彫刻を施した木板で覆い、歴代市長の肖像画で壁を飾った。建物の外装は、彫刻家シモン・ギヨーム(Simon GUILLAUME)が、内装は、再びトーマ・ブランシェが担当した。建物正面のファサードは、彫刻家マルク・シャブリ(Marc CHABRY、1660-1727年)が手掛けた「ルイ14世の騎馬像」で飾られた。

18世紀末、市庁舎は再び大きな被害を受けた。市庁舎を襲ったのは火事ではなくフランス革命であった。1793年、革命軍により市庁舎が攻撃され、ファサードを飾るルイ14世の騎馬像が取り壊された。そして、市庁舎の中に反革命派を裁く革命裁判所が設けられ、有罪判決を受けた者はテロー広場あるいはベルクール広場でギロチンにかけられるという恐怖政治が台頭した。

二度あることは三度ある。1803年7月14日、市庁舎は2度目の大火事に見舞われ、またしても祭典の大広間などが焼損した。
1829年にルイ14世の騎馬像があったファサードに、ジャン=フランソワ・ルジェンドル=エラル(Jean-François LEGENDRE-HERAL、1796-1851年)が手がけたアンリ4世の騎馬像が置かれたが、大きな修復工事は1853年まで待つことになる。

1853年、ローヌ県の県知事にクロード・マリウス・ヴァイス(Claude Marius Vaïsse)が任命された。敏腕のヴァイスはリヨン市長も兼任し、県政および市政をリヨン市庁舎で行うことを望み、建物が劣化していたリヨン市庁舎の修復工事に取りかかったのだ。リヨン出身の建築家トニー・デジャルダン(Tony DESJARDINS、1814-1882年)の指揮下で、ファサードは17世紀のマンサールの設計を再び採用し、本館は18世紀の新古典主義様式で新しい風を入れた。大階段の内装は、ブランシェの作品を可能な限り忠実に修復し、布クロスも17世紀の当時と同じものがリヨンの絹織物工房で複製された。1854年から1869年の15年の歳月をかけて修復工事が行われ、現在の姿になったのだ。

このように、バロックから新古典主義の均衡のとれた美しいリヨン市庁舎のファサードを眺め、波乱万丈の歴史に思いをはせるのも悪くはない。

■リヨン市庁舎の内側
「リヨンの栄光」の象徴として建設されたリヨン市庁舎の内側は、大火事とフランス革命で失ってしまった部分も多いが、それでも見事な内装が残されている。

■大階段(Escalier d'honneur)
楕円を描く螺旋状の階段は建築家であり数学者でもあったジラール・デザルグの作品。天井や壁には1658年から1667年にかけてトーマ・ブランシェが手がけた絵画が複製されている。64年の「ネロ皇帝の治世中にラグドゥヌムを襲った大火災」の様子が描かれ、リヨン市庁舎の火災との闘いの歴史を象徴するものだ。

■祭典の大広間(Grande Salle des fêtes)
正面の大階段を登った最初の部屋にあたる。長さ26m、幅12mの広さで5つの窓が配され、テロー広場を一望できる。1674年の火事でブランシェ(1655年)の装飾は焼失してしまったが、火災後、マンサールによって修復工事が行われた。暖炉の上の銅製レリーフには、「ローマの武将ルキウス・ムナティウス・プランクスによるリヨン(ルグドゥヌム)創設」を描いたもの。

■エンリ4世の間(Salon Henri-IV)
1652年、この部屋で市長や執政官の任命式が行われていた。ブランシェのエンリ4世の肖像画から「エンリ4世の間」と呼ばれるが、その肖像画そのものは失われている。天井画は太陽王ルイ14世の栄光を表現し、「王室に対するリヨンの永遠の忠誠心」(1671年)が描かれている。ブランシェはシンボルやアレゴリーを研究し、いたるところで用いているのが特徴だ。

■紋章の間(Salle des armoiries)
壁一面がリヨンの役人の肖像画で飾られていたが、火事で焼失してしまった。現在は、当時の役人の紋章が飾られている(フレームは18世紀のもの)。

執政の間(Salon du Consulat)
歴代市長が利用していた部屋。ブランシェが内装を担当した。天井は1659年から1660年の作品で、「リヨン執政の栄光」を表現し、暖炉の両隅を飾る彫像は、「慎重(Prudence)」と「哲学(Philosophie)」を象徴する。

■保持の間(Salon de la Conservation)
1658年、リヨン物産市の特権を保持するための裁判に使われた部屋で、現在の商事裁判所にあたる。商事に関する係争は、王立裁判所ではなく、市の執政機関にゆだねられていた。天井画は1669年のブランシェの作品で、中央のメイダイヨンに「悪徳の陥落」が描かれ、その四隅に「善悪の区別(Distinction du Bien et du Mal)」、「誠意(Sincérité)」、「英知(Sagesse)」、「リヨンの天分(Génie de Lyon)」を意味するアレゴリーが描かれている。

■旧古文書室(Salle des anciennes archives)
部屋の中央をニコラ・ルフェヴル(Nicolas LEFEBVRE)による豪華な暖炉(1652年作)が占め、ガラスボールが印象的なオランダ製のシャンデリアやフランス第二帝政時代の絵画が飾られている。アーチ型天井が中世の雰囲気を漂わせ、他の部屋とは一線を画す。

■紅の間(Salon rouges)
かつて市長の私邸として使用されていた。


文・写真:マダムユキ


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