リヨン美術館の『ピカソ展』で心が潤う
コロナ禍の1年で得た教訓は、「物事は先に延ばさない」「今できることは即実行する」「明日は何が起きるかわからない」。ロックダウン前にやっておいてよかったことのひとつ。リヨン美術館で開催している特別展を見学したこと。
特別展は新しい視点で作品をとらえ、専門的・研究的な分析を施し、それを一般の人にわかりやすく説明するという教育的側面が高く、カタログも充実しているところが魅力だ。なんといっても今回は、キュビスムの創始者であるパブロ・ピカソ(Pablo PICASSO、1881-1973年)の「水浴」シリーズがテーマである。ピカソは「水浴」を題材に一連の作品を残した。たとえば『アヴィニヨンの娘たち』(1907年、ニューヨーク近代美術館)は、キュビスム黎明期の作品として知られている(精密にいえば「浴女」ではなく「裸婦」が題材)。
ピカソの「水浴」シリーズは、すでに世界各地の美術館で取り上げられてきたおなじみのテーマであるが、リヨン美術館が主催となれば、「何が何でも、仕事を投げ出しても初日に行くぞ~」という意気込みでいたのだ。
▲館内の大階段に吊り下げられたポスター
リヨンのピカソ展は、2020年3月18日から7月13日まで予定されていた。それが、3月16日からフランスで最初のロックダウンが実施されて美術館が閉鎖されてしまった。待ち望んでいた特別展だったので、本当にがっかり......。5月11日から段階的に外出制限が解除され、ピカソ展の開催時期が「7月15日から2021年1月7日まで」と変更になった。「ヤッホー」と飛び上がって大喜び!
入場は完全予約制となった。リヨン美術館の公式ウェブサイトから見学日と見学時間を指定する。開館時間も変更され、日曜日は10時から18時まで、それ以外の曜日は午後のみ(13時から20時まで)と短縮された。
▲海好きで知られるピカソ
見学予約日、20分ほど早くリヨン美術館に到着した。ほかに入場を待っている人もいなかったので、受付の人に「予定の時間より少し早いけれど、入ってもいいですか」と尋ねたところ、「時間まであと少しお待ちください」と、あっけなく断られた。時間に寛容なフランス人は承諾してくれると思ったのだが......(残念)。その日は天気もよかったので、リヨン美術館中庭に展示されているロダンの彫像を一つひとつ丹念に眺めながら時間を潰し、それでも5分前に受付に戻った。今度は笑顔で「どうぞお入りください」と、時間より5分早く中に入れてもらえた。やっぱり時間に寛容な国だ......(ラッキー)。
▲ピカソ展内観
リヨン美術館とピカソ作品の出会いは、女優であり、美術品蒐集家のジャクリーヌ・ドゥリュバック(Jacqueline DULUBAC、1907-1997年)が1997年にリヨン美術館に『海辺に座る女(Femme assise sur la plage)』(1937年2月10日、リヨン美術館)を寄贈したことから始まる。リヨン美術館はジャクリーヌ・ドゥリュバックの寄贈作品のおかげで近代絵画部門を充実させてきた。2004年に彼女にオマージュを捧げる特別展が開催されたのは記憶に新しい。
ピカソの『海辺に座る女』に話を戻すと、ピカソは1937年に「水浴」をテーマに3つの作品を制作している。ひとつが、リヨン美術館が所蔵している、1937年2月10日作の『海辺に座る女』、ふたつ目が2月12日作、ヴェニスのペギー・グッゲンハイム財団所蔵の『水浴(La Baignade)』、3つ目が2月18日作、パリのピカソ国立美術館所蔵の『読書する大きな水浴の女(Grande baigneuse au livre)』。
今回のピカソ展は、グッゲンハイム財団とピカソ国立美術館の協賛により、この3作品が一堂に会したのだ(すばらしい)!
そして、このピカソ展では、リヨン美術館が所蔵する『海辺に座る女』をメインピースに、ピカソの「水浴」シリーズからみられる時代ごとに変化するピカソの作風、表現形式に焦点をあて、ピカソのプライベート写真からピカソの私生活と創作活動の関連性を紐解きながら、ピカソが影響を受けた作品、ピカソから影響を受けた作品を鑑賞することができるという、素晴らしい構成になっている。
「水浴」「裸婦」は時代を超えたテーマ
「水浴」といえば、私は18世紀の作品が好きなこともあり、フランス・ロココ時代の巨匠フランソワ・ブーシエ(François BOUCHER、1703年-1770年)の『ディアンの水浴(Diane sortant du bain)』(1742年、ルーヴル美術館所蔵)が目に浮かぶ。深い緑の森を背景に、バラ色の肌をした美しい女神ディアナとニンフが月の光を浴びて、官能的な美しさを際立たせている作品だ。ギリシア神話をモチーフにしている。リヨン美術館所蔵作品のなかでは、美しい「裸婦」を描いたフランドル画家ヤン・ビューゲル(父)(Jan BRUEGHEL L'ANCIEN、1568-1625年)の『空気(L'Air)』『水(L'Eau)』『火(Le Feu)』『大地(La Terre)』のアレゴリー4作品がとても好きだ。
海好きで知られるピカソは「水浴」作品をシリーズで数多く手がけているが、先代の画家の作品からインスピレーションを得ていたようだ。例えば、象徴主義のピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes、1824-1898年)はリヨン出身の画家で、古典文学、ギリシャやローマ神話をモチーフにした作品が多く、古典主義的でありながら静謐で夢幻的な作風を特徴とする。彼の作風は多くの画家に影響を与え、ピカソも美術館に通ってはシャヴァンヌの絵を模写していたと伝えられている。シャヴァンヌは壁画画家としても定評があり、リヨン美術館の大階段の壁画も彼の作品だ。シャヴァンヌのほかにも、ポール・セザンヌ(Paul CEZANNE、1839-1906年)、エドゥアール・マネ(Edouard MANET、1832-1883年)、ポール・ゴーギャン(Paul GAUGUIN、1848-1903年)、ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste RENOIR、1841-1919年)といった19世紀の写実主義や印象派の画家たちが「水浴」という題材に魅力を感じていたようだ。
▲『芸術とミューズにとって愛しい生なる森』(シャヴァンヌ、1848年、リヨン美術館の大階段)
▲『5人の浴女』(セザンヌ、1877-1878年、ピカソ美術館)
▲『海岸』(マネ、1873年、オルセー美術館)
▲『Nave Nave Mahana』(ゴーギャン、1896年、リヨン美術館)
1908年、「水浴」シリーズのはじまり
最初に「浴女」を題材にしたのは1908年頃からで、パリから100kmほど北上したコンピエーニュの森の近くに滞在していたときのこと。
▲『森の浴女の習作』(ピカソ、1908年、ピカソ国立美術館)
▲『横たわる裸婦』と『立ち姿の裸婦』」(ピカソ、1908年、ピカソ国立美術館)
1918-1924年、新古典主義とモダニズム
1918年夏、フランス南西部の高級リゾート地ビアリッツでバカンスを過ごしたときに制作された「水浴の女たち(Les Baigneuses)」はプロポーションが多少デフォルメされているが、1907年の『アヴィニヨンの娘たち』とは異なり、とても写実的な作風といえる。専門家は、1915年から1925年頃を「ピカソの新古典主義の時代」と呼ぶ。イタリア旅行中にギリシャやローマの古代美術からインスピレーションを得たようだ。また、フランス・ブルターニュ地方の海岸リゾート地ディナールで休日を過ごした夏に制作された『浜辺を走る二人の女性(Deux Femmes courant sur la place)』は、古代美術の彫像を彷彿とさせる量感豊かなボディで描かれ、腕から足へと流れるラインが躍動感を生み、両手を広げて走る姿は歓びに満ちあふれている。妻オルガさんとの間に息子が生まれた翌年の作品で、ピカソの「幸福感」が伝わってくる(写真がなくて申し訳ない)。
▲『水浴の女たち』(ピカソ、1918年、ピカソ国立美術館)
▲『水浴の男女』(ピカソ、1920-1921年、Collection Davis et Ezra NAHMAD)
▲『3本の腕をもつ女』(アングル、1859年、モント―バンのアングル美術館)
1927年~1929年、ピカソのメタモルフォーゼの時代
1926年頃から、ピカソの作風が一変する。1924年の「シュルレアリスム宣言」でシュルレアリスム(超現実主義)を創始したアンドレ・ブルトン(André BRETON、1896-1966年)と交流があったピカソは、人物像を極端に変形して描くことに興味を持つようになった。1928年の「水浴の女たち」シリーズでは、頭、胸、手、足の4つのパーツが幾何学化され、現実的に不可能な形で人物の動きが表現されている。パリで活躍しているベルギー生まれのアーティスト、ファラ・アタッシ(Farah ATASSI、1981-現在)が1928年のピカソの「水浴」シリーズからインスピレーションを得て『遊び(The Game)』や『泳ぐ人(The Swimmer)』を制作し、ピカソの21世紀バージョンとして注目された。
▲『浜辺でビーチボールで遊ぶ人』(ピカソ、1928年、ピカソ国立美術館)
▲『遊び』(アタッシ、2019年、個人所蔵)
1930-1933年、三次元の世界へ
1930年、ピカソはパリとルーアンの間に位置する12世紀の古城、ボワジュループ城(Château de Boisgeloop)を購入し、厩舎をアトリエに改装した。広々としたアトリエでピカソは彫刻に取り組みはじめた。ピカソのキュビスムが彫刻を通じて具象化され、デッサンや絵画といった二次元の世界と彫刻という三次元の世界を結ぶピカソの思考回路がたいへん興味深い。特にこの時期、ピカソは「骨」「骨格」に強い関心を抱いており、量感が生み出すイリュージョン(錯覚)を追求している。
▲『海辺の人物』(ピカソ、1933年、ピカソ国立美術館)
▲『アナトミー:3人の女たち』(ピカソ、1933年、ピカソ国立美術館)
1937年、「水浴」三連作
1937年といえば、ピカソの大傑作『ゲルニカ(Guernica)』(1937年、ソフィア王妃芸術センター)が誕生した年だ。スペイン内戦中の1937年1月に共和国政府から在仏イタリア大使館を経由してパリ万博のスペイン館を飾る壁画の制作依頼を受けたピカソは、同年4月のナチスドイツ軍によるゲルニカ爆撃を主題に選び、5月1日から6月4日にかけて制作を行い、「反戦と平和のシンボル」として完成させた。
この年、ピカソは2月10日、12日、18日の3日にかけて「水浴」をテーマにした3連作を制作した。今回のピカソ展でこの3作品がそろって展示されている。リヨン美術館が所蔵する作品は最初に手がけられた作品で、グレコ・ローマン様式(古代ローマ時代のギリシャ美術の影響を受けた芸術様式)の彫像を彷彿とさせる作風。3作品ともに人体に丸みのあるフォルムと量感をもたらせている。
2018年、現在ベルリンに拠点をおいて活躍している仏人アーティストのギヨーム・ブリュエール(Guillaume BRUERE、1976-現在)が、パリのピカソ美術館に集合した1937年作の「水浴」3連作を見ながら48点のデッサン画を描いた。その一部が展示されている。
▲『海辺に座る女』(ピカソ、1937年、リヨン美術館)
▲『水浴』(ピカソ、1937年、グッゲンハイム財団)
▲『読書する大きな水浴の女』(ピカソ、1937年、ピカソ国立美術館)
▲『ピカソの水浴三連作をもとに描いたデッサン画』(ブリュエール、2018年、ピカソ国立美術館)
1938-1942年、戦時中の水浴
スペイン戦争に続いて、第二次世界大戦が勃発した時代、ピカソはフランスを離れることなく創作活動を続けた。1938年にも一連の「水浴」作品が制作されている。デフォルメされたラインと恐怖と残虐を表わす暗い色遣い......、戦渦に身を置くピカソがこの作品に込めた思いとは......、見る人の心に訴えかけてくる作品となっている。1942年にも「水浴」を制作している。作風が一変し、ふくよかで丸みのあるボディは20年代の新古典主義への回帰なのか。
▲『シャワー室の浴女』(ピカソ、1938年、ピカソ国立美術館)
▲『浴女とカニ』(ピカソ、1938年、ピカソ国立美術館)
▲『座る2人の女』(ピカソ、1943年、ピカソ国立美術館)
1955-1957年、晩年の水浴
50年代のピカソはベラスケスやゴヤ、プッサンといった過去の巨匠の作品をアレンジした作品を制作した。1948年から1955年までカンヌ近郊の陶芸の町ヴァロリスに移り住み、陶芸活動に力を注ぐ。そして、1955年から再び「水浴」をテーマにした一連の作品に着手した。70歳を超えたピカソだが、油彩や水彩やクレヨンなどでカラフルな絵を描いている。
▲『ラ・ガループの浜辺の女と野獣と山羊』(ピカソ、1955年、ピカソ国立美術館)
▲『水浴の女たち』(ピカソ、1956年、ピカソ国立美術館)
▲『ラ・ガループの浴女』(ピカソ、1957年、ピカソ国立美術館)
このように「水浴」をテーマにピカソの画歴を回顧しただけでも、作風の変遷を楽しむことができる。世界中にピカソファンがいて、ピカソ研究に専念している人がいて......。ピカソが成し遂げた偉業や芸術の世界に与えた影響は計り知れないものがある。
ロックダウンが12月15日まで実施され、リヨン美術館は年明けの2021年01月07日まで閉鎖が決定している。ピカソ展の開催にあたり、テーマ研究、作品収集、展示レイアウト、カタログ作成など、膨大な時間をかけて準備が行われたことであろう。ロックダウンで開催期間が延期され、さらに2度目のロックダウンで、開催が中断されるという、不運な特別展となってしまった。ロックダウンが解除されたらもう一度、ピカソ展を見学しようと思っていたが、願い叶わずとなってしまった。新型コロナウイルスが蔓延している今、自粛した生活が要求されているが、希望を捨てずに頑張りたい。いつか、どこかで、ピカソの作品にまた出会えるであろう。
【ピカソ展】
・会期: 2020年7月15日~2021年1月7日
・場所: リヨン美術館(MUSEE DES BEAUX ARTS DE LYON)
・住所: 20 place des Terreaux - 69001 Lyon France
・開館時間: 日曜日 10:00~18:00、月曜日~土曜日 13:00~20:00
・入館料: 大人 €13
・サイト: https://www.mba-lyon.fr/fr/fiche-programmation/expo-picasso-lyon
・予約要: リヨン美術館サイトあるいはリヨン美術館の窓口で見学日時の指定と事前のチケット購入が必要となります
・最寄り駅: 地下鉄A線、リヨン市庁舎(HOTEL DE VILLE)
※注意:新型コロナウイルス(COVID-19)の感染予防対策措置により、美術館は2021年01月07日まで閉鎖されています。最新情報は美術館の公式ウェブサイトを確認してください。
文・写真:マダムユキ(著作権保護から無断複写・複製は禁じられています)