フランス最古のロマネスク回廊を訪ねてモワサックへ

フランス最古のロマネスク回廊を訪ねてモワサックへ

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ロマネスク建築の傑作『モワサック修道院教会』を歩く

 

フランス最古のロマネスク建築を訪ねてモワサックへ

モワサック(Moissac)という小さな町をご存知だろうか。フランス南西部のオクシタニー地域圏、タルヌ・ェ・ガロンヌ県にある人口およそ1万2千人の小さな町だ。トゥールーズ・ブラニャック空港から車で高速道路A62号線を走り、およそ1時間ほどの北上したところにある。

リヨンからトゥールーズを経由してモワサックへ。
フランス最古にして最大規模の美しい回廊と、ロマネスク彫刻の傑作として讃えられるタンパンで知られるサン・ピエール修道院教会を訪ねるため、はるばるリヨンからやってきた。

モワサック修道院教会は、メロヴィング朝フランク王国の初代国王クロヴィスにより創設されたという言い伝えがある。クロヴィスは、ゲルマン民族諸王のなかではじめてカトリックに改宗した王で、507年に西ゴート(現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配していたゲルマン民族系王国)の王アルリック2世との戦(ヴイエの戦い)に勝利し、西ゴート王国の首都トゥールーズまで進軍してアキテーヌの大部分を獲得、フランク王国の領土を北海からピレネー山脈まで拡張した凄腕の王だった。

伝承によれば、クロヴィスは西ゴートとの闘いに勝利したあかつきに、戦で犠牲になった兵士のために修道院「千人の修道士のための修道院(abbaye aux mille moines)」を建立すると誓い、丘の高台から槍を投げ、その槍が刺さった場所に修道院を設立したという。それが後にモワサックになったそうだ。

歴史研究者によれば、モワサックの修道院教会は7世紀半ばにカオールの司教サン・ディディエによって創設されたという。こちらの方が信ぴょう性が高そうだ。

修道院の創設には諸説あるようだが、そもそもモワサックはトゥールーズとボルドーを結ぶ主要な街道沿いにあり、また、ガロンヌ川とタルヌ川が合流する地点でもあることから、陸運ならびに水運の重要な拠点とされ、時代を通じて侵略と略奪が繰り返されてきた。1031年の戦では、修道院の屋根が崩落するほど荒廃したというから、凄まじい領土争いが繰り広げられたことが伺える。 

モワサックの修道院は1047年にクリュニー会に入会し、11世紀から12世紀にかけて黄金期を迎えた。この時代にロマネスク様式で数多くの建設工事が行われたのだ。

クリュニー会とはフランスのブルゴーニュ地方のクリュニーに909年に創設されたベネディクト会系の修道院を頂点とした修道会だ。クリュニー改革とよばれる修道会改革運動を展開し、最盛期には1200の修道院を管轄下におき、2万人の修道僧を数えるほど勢力を広げていた。機会があったら、ブルゴーニュ地方のクリュニー大修道院についても紹介したい。「奢れる平家は久しからず」ではないが、栄華を極め、フランス革命で破壊されたクリュニー会の歴史は大変興味深いものがある。 

モワサックに話を戻そう。現在のロマネスク教会堂は、クリュニー系の初代修道院長かつトゥールーズ司教デュラン・ブルドンにより建設されたものである。その後、12世紀に正面にあたる西ファサードと鐘楼が付け加えられた。

クリュニー会の後ろ盾を得て、修道院はフランス南西部の有力修道院として権威を高めていくが、1212年のアルビジョワ十字軍の際に修道院は略奪された。更に14世紀、百年戦争の折に大きな被害を受けてしまう。中世の時代は戦争の繰り返しなのだ。フランスだけではないが…。 

15世紀に入って修道院教会堂の再建工事が実施された。12世紀末のロマネスク様式の下部構造を残しつつ、上部はゴシック様式で再建された。よくあることだが、モワサックは素人でも一目でその違いが分かる。ロマネスク部分は石で造られ、ゴシック部分はレンガで造られているのだ!建設費の問題だ。石よりもレンガが安価であったからだ。

修道院としての影響力を強めたモワサックであったが、フランス革命で修道院が廃止された。教会堂と回廊は再び略奪の被害に遭うことになる。

フランスの偉大さは歴史遺産を放置しないこと。19世紀半ば、パリのノートルダム大聖堂を修復した建築家ヴィオレ・ル・デュク(Eugène Viollet-le-Duc)が教会堂を修復し、現在へその姿が継承されている。

また話が逸れるが、パリのノートㇽ・ダム大聖堂のほか、ヴェズレーのラ・マドレーヌ教会堂、カルカソンヌの城壁、ピエールフォン城など、数々の修復を手掛けた中世建築の修復家ヴィオレ・ル・デュクについて、こちらも機会があったらブログに書きたい。修復とは何か…という興味深い議論が展開できそうだ。

さてさて、略奪の歴史が繰り返されてきたモワサックのサンピエール修道院教会だが、ロマネスク芸術の傑作とされるタンパン彫刻と回廊の柱頭彫刻は当時の姿で保存され、1998年に「フランスのサンティアゴでコンポステーラの巡礼路」(ル・ピュイの道/ポディエンシス街道)に位置する教会堂としてユネスコ世界遺産に登録された。

「モワサックの入口を見なかったものは、何も見なかったことに等しい」と言われるほど、モワサック修道院教会の入口を構成するタンパンやリンテル、中央柱は豊かな彫刻装飾が施され、ロマネスク芸術の傑作だ。

タンパンは、ヨハネの黙示録の最後の審判の「キリストの再臨」を表現したもの。写真では分かりづらいかもしれないが、王座についたキリストが描かれている。左手を膝上の福音書の上にのせ、右手は高く上方に掲げて祝福をほどこすしぐさで、テトラモルフ(四福音書記者のシンボル:キリストからみて左上のヨハネを表わす鷲、右下のルカを表わす雄牛、右上のマタイを表わす天使、右下のマルコを表わす獅子)と二人の天使に囲まれた構図だ。キリストの周りには、金の冠をかぶったヨハネの黙示録に登場する24人の長老たちが三層に配され、異なるポーズをとりながら、全員が主役のキリストに視線を向けている。

入口扉を左右を分ける中央柱に預言者エレミアと聖パウロの像が彫られているが、彼らの表情の豊かさをご覧いただきたい。当時の名もない彫刻家たちの技術力の高さに感嘆させられるのは私だけではないと思う。

特に、東面に彫られた預言者エレミヤの物憂げな表情、波打つ顎鬚の曲線美、引き伸ばされた細長い身体とそのねじり加減、衣服のドレーブの繊細な動きなど、リテールの表現力はロマネスク彫刻のなかでも卓越した作品の一つとされる。また、扉右側には「善人」、左側には「罪人」をテーマに様々なレリーフが施されているが、これを見ただけでも、まさにロマネスク彫刻の美術館といえよう!

ナルテックス(前室)を通って、教会堂本体の身廊へ入ってみた。身廊は15世紀に上部が拡張され、リブ・ヴォールト天井と尖塔アーチ窓が配され、ゴシック様式で整えられているのがわかる。壁一面に黄色地に赤い花模様が施され、温かみのある雰囲気が漂よう。身廊の左右には、「キリスト埋葬」「聖家族のエジプト逃避」「嘆きの聖母(ピエタ)」など、15世紀の彫刻作品で飾られていた。

写真がボケてしまい掲載できないのが残念だが、オルガンの下にピレネーの白大理石で制作された石棺があった。石棺の中央に、クリズム(キリストのモノグラム)が彫られ、キリストの綴りの最初の文字であるX(CH)とR、初めと終わりを連想させるアルファとオメガを表わしたものだ。当時、高熱や頭痛に苦しむ人々が病からの回復を願って、この石棺の下に座ったそうだ。

修道院教会の北側にある回廊は木造天井で覆われた4つのギャラリーで構成されている。縦31メートル、横21メートルという大きさを誇り、フランスで最大かつ最古のロマネスク回廊だ。これが見たかったのだ。これを見るためにここまでやってきた。感動で体が震えた。

ギャラリーの中庭側にはレンガ造りの尖塔型アーケードが並び、小円柱またはピラーで繋がっている。大理石の小円柱は116本を数え、単柱と双柱が交互に繰り返して配列されていた。ピラーはレンガを基盤に積まれ、各ギャラリーの隅と中央に配されている。これぞ幾何学美!

見どころは、当時の状態で保存されている芸術性豊かな柱頭彫刻だ。新旧約聖書のエピソード、聖人伝、植物文様(アカンサスの葉、パルメット)、実在の動物や空想の動物など、モチーフは多種多彩で、柱頭という限られたスペースの中に彫刻家の創造性と想像性が発揮されていた。

修道院の庭を取り囲む回廊は、俗世から切り離され、修道士たちの瞑想の場であり、回廊へと導く扉を開けた瞬間、神聖なる空気が流れ、聖域への入口であることが伝わってくる。

柱頭彫刻は4面に施されれ、一つひとつ丹念に見ていくと数時間があっという間に過ぎてしまう。物語の流れに沿って並べられているのでもなく、無秩序な配列が中世らしくて、じつに微笑ましかった。

日常の雑念を取り除きたいときは、回廊巡りはおすすめだ。

 

【サン・ピエール修道院(ABBAYE SAINT PIERRE DE MOISSAC)】

 

マダムユキより

文・写真:マダムユキ(著作権保護により無断複写・複製は禁じられています)

※当記事は『地球の歩き方リヨン特派員ブログ』から転載したものです

 

 

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